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死刑制度に関する雑感

 

死刑制度に関する雑感

死刑制度に関する雑感
 
1.はじめに
私は、必ずしも死刑廃止論者ではありません。
勿論、自分が刑事弁護を依頼された事件では手を尽くして死刑回避を求めますが、個別の事件ではなく、制度として見た際に死刑廃止を支持できるかどうかとなるとそれはまた別の話です。

弁護士会内には死刑存置を主張する方もおられますし、そもそも死刑問題に関心のない方も多いのです。
弁護士会内ですら議論が煮詰まっていないのですから、弁護士会としては本来は中立性を保つべきところであると考えております。

これは日本弁護士連合会や死刑廃止検討委員会の公式な考え方ではなく、全くの個人的意見ですので、その点はご了承いただければと存じます。
 
 
2.死刑廃止はなぜ望ましいとされるのか
まず、一般論として死刑廃止が望ましいとされる根拠について検討します。

三原憲三教授の『死刑廃止の研究』(成文堂)の記述を参考にして書かせていただきます。
 
一般的にいわれていることの中で最も大きなものは「誤判の恐れに対処できないこと」でしょう。

いかに事件捜査のための科学技術が発達したとは言え、誤判・冤罪事件は理論上も発生しえますし、事実発生しております。
死刑判決が言い渡された事件ではありませんが、最近で最も有名になったのが足利事件です。簡単に説明すると、犯行時痕跡のDNA型と被疑者のDNA型が一致していないのに、捜査機関の強引な取調により自白を強要され、後に無罪が争われたものの有罪の無期懲役判決が確定したというものです。
最終的には冤罪であることが判明したものの、もしこれが死刑判決であれば、取り返しのつかない事態になり得たことは明らかです。

上記『死刑廃止の研究』にも、外国の例ではありますが、死刑を執行した後に真犯人が(別件の罪で捕まるなど何らかの契機があって)名乗り出た、という話が多く紹介されております。

また、個人的には、死刑が政治的に利用される可能性、というのも無視できないと考えております。
フランス革命のジャコバン政府時代には1000人を越える人々が、専ら政治的意図のために、死刑に処せられました。
 
現代の日本においてはどうでしょうか。
私も含めて、日本人の意識の中に、ある重大犯罪者に死刑が執行されたと聞いて、それで世の中が一つ確実に良くなったかのような、胸がスッとするような感覚を覚える部分はないでしょうか。正直なところを申し上げれば、少なくとも私にはあります。
しかし、よく考えてみると、被害者遺族の悲しみは、ほんの少し解消される部分はあるかもしれませんが、根本的には変わらないでしょう。何かが「良くなった」、何かが「回復された」かのような感覚を覚えるのは主にその犯罪と無関係な一般国民のほうです。
重大犯罪者に対する死刑の執行には、何か人々の不満や鬱屈を解消するものがあると思います。
問題は、その「不満や鬱屈の解消」という機能の面を、利用されることです。
例えば、2016年、フィリピンのドゥテルテ大統領は麻薬犯罪者を射殺(実質的な死刑)する過激な治安政策で人気を高めていましたが、逆に考えれば犯罪者に対する厳しい姿勢をPRすることで、現実の政策のまずさ(麻薬犯罪に手を染めなければならない貧困)を糊塗しているところがあるとは言えないでしょう。
死刑が被害とは無関係な一般国民からの支持・賞賛を得るために行使されるとしたら、これは危険なことです。
 
 
3.死刑廃止論に対する疑問

他方で、現在唱えられている死刑廃止論の論拠の一部について腑に落ちない部分もあります。


(1)論理矛盾なのか
よく言われるのは「殺人を法によって禁じている国家が死刑というかたちで殺人を犯すことを法で肯定するのは論理矛盾だ」という論拠です。
法律は純粋な論理学ではありません。生身の人間を対象とするものです。常に合理的なわけではなく時に誤った選択もする「人間」と、またその人間の集合体である「国」(あるいは社会)です。

弁証法的な発想のみで考えると、この点を見落とすように思われます。
歴史上は殺人行為を禁じつつも死刑制度を設けていた国など幾らでも存在していたのであり、それらの国が全て重大な論理的矛盾を起こしていたという帰結は到底妥当とは思われません。


(2)抑止効果はないのか
よく言われる「死刑には抑止効果が無い」という論拠にも疑問があります。
こういった論拠は、死刑廃止国における統計データを用いて、死刑存置時と死刑廃止後で犯罪発生率は変化していないし治安も悪化していない、というかたちで主張されることが多いです。

しかし、統計が示してくれるのはあくまで犯罪発生率であって犯罪の詳しい内容まではわかりません、また、例えば、被害者側で言えば行方不明者扱いではあるが殺害されている可能性がある場合、加害者側で言えば犯行後も逃げおおせた場合、犯行後自殺した場合(コロンバイン高校の銃乱射事件のように)、犯行時に警察に射殺された場合など、死刑ではないかたちで決着がついてしまったもの、そうした暗数も多数あると思われます。

そして、全ての国の統計をとったわけではない上に、正確な意味での日本のモデル国家などないのですから、外国のデータが必ずしも日本に適用できるかどうかはわかりません。例えば、テロはあったものの死刑廃止国として有名なノルウェーは、人口約480万人、首都オスロの人口は約56万人であり、国の人口は東北6県(約900万人)、首都の人口は仙台(約108万人)よりも遥かに少ないのです。国土全部で比較すれば、その都市化の程度や人口密度の差は凄まじいものになるでしょう。ですので、ある国で死刑を廃止して治安が仮に悪化しなかったとしても、地理的条件や人的条件が全く異なるのですから、日本で死刑を廃止して治安が悪化しないという保障は全くないわけです。

証明責任論の観点から、「死刑廃止論が抑止効果が無いことを立証せねばならないのではなく、死刑存置論が抑止効果があることを立証せよ」という主張がされることもあります。或る事実が「無い」ことの証明は悪魔の証明と言われるという論拠です。
しかし、死刑を恐れるがゆえに凶悪犯罪を思いとどまったり、その時は警察に逮捕されることなく一人の人を殺害したものの、次の犯行を思いとどまったりする犯罪者がいないとは言えないでしょう。

したがって死刑の抑止効果には「推定」がはたらいていると思われます。この推定を、むしろ死刑廃止論のほうで覆す(死刑廃止しても抑止効果は全く変わらないことを証明する)必要があるものと思われます。
「そんなものは可能性に過ぎない、データのある事実ではない」という反論がされるかもしれません。しかし、抑止とはほぼ常に可能性の問題であると思います。可能性を排除することにこそ抑止論の意義があると考えております。データに現れてからでは遅いのです。

統計上は殺人事件が1件増えただけということになるのかもしれませんが、その1件の取り返しがつかないからこそ死刑制度の犯罪抑止効果について真剣に考えねばならないと思うのです。

 
(3)応報の観点を無視できないのではないか
他に「刑罰は犯罪を犯した人の改善更生のためにあるのであって、応報のために(だけ)存在するのではない」という論拠もあります。
しかし、被害者や被害者遺族の応報感情については無視できないものがあります。極めて重要な点です。
法律的な理屈の上では、裁判は被告人が公訴事実に記載されている犯罪行為をしたのかどうか見極め(有罪か無罪か)、有罪と判断される場合にはどのような量刑を科すかという手続ですから、そこに被害者の介在する余地は本来ありません。最近の法改正により被害者参加制度が発足しておりますが、部分的な関与に留まり、被害者の権利擁護ということが裁判手続の中で完全に果たされるわけではありません。
ただ、そのような近代刑事訴訟法の論理から、刑罰に関して応報(復讐)を一切考慮しなくてもよい、という結論が導かれるわけではありません。当然ながら、裁判がいかに進められるべきかという話と刑罰の目的は何かという話とは別の問題です。
元々、国家における裁判制度・刑罰制度というのは、私人が私刑(個人による報復)を繰り返せば暴力の連鎖となり収拾がつかず、国の秩序も余計に乱れることから、その国内に暮らす全ての私人から私刑の権利を取り上げ、代わりに国が裁き国が刑罰を行使することとしたのが発祥のはずです。

刑罰は被告人の改善更生のためにも科されるものであるとする教育刑論も古くから出てきていますが、裁判や刑罰制度の最も深いところに「応報」という概念が流れていることは否定できないと思われます。

国ははるか以前の時代に「応報」を国民から取り上げ引き受けており、国民もその「応報」が適正に果たされる限りは私刑をやめ裁判や刑罰制度を少なくともほぼ否定せずにいるのですから、この「応報」という観点を無視することはできないと思われます。

被害者または被害者遺族の応報感情も重要です。よく死刑廃止論に浴びせられる反論として「お前の家族や友人が惨たらしく殺されても死刑反対と言えるのか」というのがありますが、私も仮に家族や友人がそんなことになれば犯人を死刑に処してほしいと、おそらく主張するでしょう。

たしかに犯人を死刑にしたところで失われた命が返ってくるわけではないですが、だからと言って犯人がのうのうと生きて社会復帰だの何だのと言っているのは、どのように謝罪されても許せない、殺された人に対しても申し訳が立たないと、きっとそう思うだろうと思います。

それは非合理的思考と言われるかもしれませんが、人間はロボットではないですから、一人一人替えが利かないのです。物を壊されたとのはレベルが異なります。このような被害者感情を非合理的と切って捨てるような論法は現在ではなかなか通用しないと思われます。

勿論、死刑廃止論者の方もそこを切って捨てるわけではないと思われます。

刑罰以外の方法で、被害者の悲しみと憤りをケアできないか、「修復的司法」であるとか「グリーフケア」であるとかの比較的新しい試みがなされています。

しかしそれも、少なくとも現時点では画期的な成果を上げているわけでは無いように思われます。

私からすると、むしろ悲しみからの回復について鍵を握るのは家族や友人の理解と援助、またそれ以外に探すとすれば僧や牧師などの宗教者あるいはカウンセラーなどの心理学の領域であり、司法の領域で「修復的司法」や「グリーフケア」を唱えたところでどうにかできる問題ではないようにも思っております。

被告人の死刑を望まないという被害者の方もおられます。しかしそこで死刑廃止論者も、そのような方がそうでない方よりも先進的で優れた人格識見の持ち主であるかのような捉え方をすることは相応しくないと思います。

その被害者の方が悲しみや憤りから回復されたことは、それはそれで非常に良いことではあります。ただ、精神的な回復を果たしていない方もおられます。報復感情を燃やし続ける方もおられます。

おそらく、自分や家族が被害にあった犯罪について死刑執行のボタンを押して良いと言われたら自ら押す役目を引き受けようという方もおられるでしょう。

そのような方々を正面から説得できる論拠を持たない限り、この応報感情という論点をクリアすることは出来ないのではないかと思われます。
 

 
4.現在の考え
死刑廃止は国際的潮流と言われます。
ただ2016年10月のアメリカ大統領選挙の際に並行して行われたカリフォルニア州・ネブラスカ州・オクラホマ州の住民投票では、いずれも死刑存置派が勝利しています。
また死刑廃止をうたっている国の治安の実情も不分明なところがあります。
 
また死刑を存知している国でも、どのような犯罪に死刑を科するかはそれぞれです。
近隣諸国で最も極端なのは中国で、人の命を奪うわけではない犯罪(薬物犯罪)についても死刑が科せられます。現に死刑を執行された日本人がいます。
それと比べると日本の死刑は、ごく限られた犯罪(凶悪な殺人事件等)の中でもさらに限られた一部の犯罪にしか適用されていません。
かつては大規模なえん罪事件も発生していましたが、今後は取調べも可視化され、弁護活動が充実すればえん罪の可能性は完全にはなくならないにしても減少はしていると思われます。
 
この状況で死刑をすぐさま廃止するという論調はやや急進的に思われます。
 
(2019年10月追記)
ただ、死刑廃止の論拠のうち、(量刑も含めた)誤判のおそれ、だけは対応が必要な問題と思われます。
スーパー・デュー・プロセスということが言われます、
主にアメリカで、死刑を科することになるやもしれない裁判の場合は、鑑定等を含めて最大限の弁護・手続保障を被告人に対して保障するという考え方で、実際に、日本では一般的に減刑事由とされない心理鑑定も含めて相当綿密に調査がなされるようです。
死刑存廃について議論していても決着はなかなかつかないと思われるので、まずはスーパー・デュー・プロセスの導入を検討すべきではないかと思われるところです。
 
 
 

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