他方で、現在唱えられている死刑廃止論の論拠の一部について腑に落ちない部分もあります。
(1)論理矛盾なのか
よく言われるのは「殺人を法によって禁じている国家が死刑というかたちで殺人を犯すことを法で肯定するのは論理矛盾だ」という論拠です。
法律は純粋な論理学ではありません。生身の人間を対象とするものです。常に合理的なわけではなく時に誤った選択もする「人間」と、またその人間の集合体である「国」(あるいは社会)です。
弁証法的な発想のみで考えると、この点を見落とすように思われます。
歴史上は殺人行為を禁じつつも死刑制度を設けていた国など幾らでも存在していたのであり、それらの国が全て重大な論理的矛盾を起こしていたという帰結は到底妥当とは思われません。
(2)抑止効果はないのか
よく言われる「死刑には抑止効果が無い」という論拠にも疑問があります。
こういった論拠は、死刑廃止国における統計データを用いて、死刑存置時と死刑廃止後で犯罪発生率は変化していないし治安も悪化していない、というかたちで主張されることが多いです。
しかし、統計が示してくれるのはあくまで犯罪発生率であって犯罪の詳しい内容まではわかりません、また、例えば、被害者側で言えば行方不明者扱いではあるが殺害されている可能性がある場合、加害者側で言えば犯行後も逃げおおせた場合、犯行後自殺した場合(コロンバイン高校の銃乱射事件のように)、犯行時に警察に射殺された場合など、死刑ではないかたちで決着がついてしまったもの、そうした暗数も多数あると思われます。
そして、全ての国の統計をとったわけではない上に、正確な意味での日本のモデル国家などないのですから、外国のデータが必ずしも日本に適用できるかどうかはわかりません。例えば、テロはあったものの死刑廃止国として有名なノルウェーは、人口約480万人、首都オスロの人口は約56万人であり、国の人口は東北6県(約900万人)、首都の人口は仙台(約108万人)よりも遥かに少ないのです。国土全部で比較すれば、その都市化の程度や人口密度の差は凄まじいものになるでしょう。ですので、ある国で死刑を廃止して治安が仮に悪化しなかったとしても、地理的条件や人的条件が全く異なるのですから、日本で死刑を廃止して治安が悪化しないという保障は全くないわけです。
証明責任論の観点から、「死刑廃止論が抑止効果が無いことを立証せねばならないのではなく、死刑存置論が抑止効果があることを立証せよ」という主張がされることもあります。或る事実が「無い」ことの証明は悪魔の証明と言われるという論拠です。
しかし、死刑を恐れるがゆえに凶悪犯罪を思いとどまったり、その時は警察に逮捕されることなく一人の人を殺害したものの、次の犯行を思いとどまったりする犯罪者がいないとは言えないでしょう。
したがって死刑の抑止効果には「推定」がはたらいていると思われます。この推定を、むしろ死刑廃止論のほうで覆す(死刑廃止しても抑止効果は全く変わらないことを証明する)必要があるものと思われます。
「そんなものは可能性に過ぎない、データのある事実ではない」という反論がされるかもしれません。しかし、抑止とはほぼ常に可能性の問題であると思います。可能性を排除することにこそ抑止論の意義があると考えております。データに現れてからでは遅いのです。
統計上は殺人事件が1件増えただけということになるのかもしれませんが、その1件の取り返しがつかないからこそ死刑制度の犯罪抑止効果について真剣に考えねばならないと思うのです。
(3)応報の観点を無視できないのではないか
他に「刑罰は犯罪を犯した人の改善更生のためにあるのであって、応報のために(だけ)存在するのではない」という論拠もあります。
しかし、被害者や被害者遺族の応報感情については無視できないものがあります。極めて重要な点です。
法律的な理屈の上では、裁判は被告人が公訴事実に記載されている犯罪行為をしたのかどうか見極め(有罪か無罪か)、有罪と判断される場合にはどのような量刑を科すかという手続ですから、そこに被害者の介在する余地は本来ありません。最近の法改正により被害者参加制度が発足しておりますが、部分的な関与に留まり、被害者の権利擁護ということが裁判手続の中で完全に果たされるわけではありません。
ただ、そのような近代刑事訴訟法の論理から、刑罰に関して応報(復讐)を一切考慮しなくてもよい、という結論が導かれるわけではありません。当然ながら、裁判がいかに進められるべきかという話と刑罰の目的は何かという話とは別の問題です。
元々、国家における裁判制度・刑罰制度というのは、私人が私刑(個人による報復)を繰り返せば暴力の連鎖となり収拾がつかず、国の秩序も余計に乱れることから、その国内に暮らす全ての私人から私刑の権利を取り上げ、代わりに国が裁き国が刑罰を行使することとしたのが発祥のはずです。
刑罰は被告人の改善更生のためにも科されるものであるとする教育刑論も古くから出てきていますが、裁判や刑罰制度の最も深いところに「応報」という概念が流れていることは否定できないと思われます。
国ははるか以前の時代に「応報」を国民から取り上げ引き受けており、国民もその「応報」が適正に果たされる限りは私刑をやめ裁判や刑罰制度を少なくともほぼ否定せずにいるのですから、この「応報」という観点を無視することはできないと思われます。
被害者または被害者遺族の応報感情も重要です。よく死刑廃止論に浴びせられる反論として「お前の家族や友人が惨たらしく殺されても死刑反対と言えるのか」というのがありますが、私も仮に家族や友人がそんなことになれば犯人を死刑に処してほしいと、おそらく主張するでしょう。
たしかに犯人を死刑にしたところで失われた命が返ってくるわけではないですが、だからと言って犯人がのうのうと生きて社会復帰だの何だのと言っているのは、どのように謝罪されても許せない、殺された人に対しても申し訳が立たないと、きっとそう思うだろうと思います。
それは非合理的思考と言われるかもしれませんが、人間はロボットではないですから、一人一人替えが利かないのです。物を壊されたとのはレベルが異なります。このような被害者感情を非合理的と切って捨てるような論法は現在ではなかなか通用しないと思われます。
勿論、死刑廃止論者の方もそこを切って捨てるわけではないと思われます。
刑罰以外の方法で、被害者の悲しみと憤りをケアできないか、「修復的司法」であるとか「グリーフケア」であるとかの比較的新しい試みがなされています。
しかしそれも、少なくとも現時点では画期的な成果を上げているわけでは無いように思われます。
私からすると、むしろ悲しみからの回復について鍵を握るのは家族や友人の理解と援助、またそれ以外に探すとすれば僧や牧師などの宗教者あるいはカウンセラーなどの心理学の領域であり、司法の領域で「修復的司法」や「グリーフケア」を唱えたところでどうにかできる問題ではないようにも思っております。
被告人の死刑を望まないという被害者の方もおられます。しかしそこで死刑廃止論者も、そのような方がそうでない方よりも先進的で優れた人格識見の持ち主であるかのような捉え方をすることは相応しくないと思います。
その被害者の方が悲しみや憤りから回復されたことは、それはそれで非常に良いことではあります。ただ、精神的な回復を果たしていない方もおられます。報復感情を燃やし続ける方もおられます。
おそらく、自分や家族が被害にあった犯罪について死刑執行のボタンを押して良いと言われたら自ら押す役目を引き受けようという方もおられるでしょう。
そのような方々を正面から説得できる論拠を持たない限り、この応報感情という論点をクリアすることは出来ないのではないかと思われます。
前田誓也法律事務所
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