刑法総論を勉強する際には、大体は学者の執筆した基本書を読むことになります。
基本書を読む際に、受験生が突き当たる問題が「行為無価値論の本を読むか、結果無価値論の本を読むか」ということです。
刑法学者によって、行為無価値論をとる人もいますし、結果無価値論をとる人もいます。
勿論、学説の相違自体は他のどんな科目にもあることであり、それぞれの学説の論拠を調べてどの学説が最も相応しいと思われるかということを考えるのが法律学習の重要な部分なのですが、刑法総論の行為無価値論と結果無価値論の違いは、一つの論点に留まらず刑法総論全体の理解の違いに結びついてきますので、受験生を悩ませることになります。
行為無価値論は、違法性の本質を、犯罪の行為に重点を置いて解釈する考え方です。
殺人罪であれば、人を殺害するという行為が違法の本質ということになります。
結果無価値論は、違法性の本質を、犯罪の結果に重点を置いて解釈する考え方です。
殺人罪であれば、人を死亡させたという結果が違法の本質ということになります。
両説の最大の違いは、故意・過失の検討をどの段階で行うかということに繋がります。
刑法総論においては「1.構成要件 2.違法 3.責任」の順で犯罪成立の有無を検討することになりますが、故意・過失をどの段階で検討するかの位置づけが各説によって異なります。
行為無価値論であれば、1番目の構成要件の段階で故意・過失を検討します。
結果無価値論であれば、3番目の責任の段階で故意・過失を検討します。結果無価値論は、構成要件や違法性をなるべく客観的に(つまり、人の心情であるとか主観的なことを介入させずに)理解しようとするので、3番目の責任の段階にて故意・過失を検討することになります。
ただ、司法試験等の受験を意識するのであれば行為無価値論のほうが良いと思います。
結果無価値論のデメリットの一つは、刑法総論以外の科目との整合性の問題です。
結果無価値論は、構成要件と違法の段階では主観的な要素(つまり人間の心情のような要素)を排除しようとするところが特徴ですが、刑法各論においては、例えば財産犯の検討において「不法領得の意思」という主観的要素を検討します。最初から構成要件の検討において主観的な要素が入り込むことを否定しない行為無価値論においては故意に追加して「不法領得の意思」を検討することについて違和感はないですが、構成要件と違法性において主観的な要素が入り込むことを否定しようとする結果無価値論において「不法領得の意思」を検討することについては強い違和感があります。
この点、例えば結果無価値論である林幹人教授は『刑法各論』(第2版)において「実質的に重大な法益侵害に向けられた意思を犯罪成立要件と解するほかないであろう」(193頁)と記述しておられますが、その「犯罪成立要件」が刑法総論においてどのような位置づけになってくるのか不明確であるという印象を受けます。
同じく結果無価値論の曽根威彦教授は『刑法各論』(第4版)で不法領得の意思を不要としており、理論的には一貫していますが、最高裁判例に真っ向から反する結果になる上、かえって財産犯の成立範囲が広がる結論を招来するとも思われ、妥当とは思われません。
つまり、刑法総論と言う科目単体で見た場合は結果無価値論のほうが理論の一貫性、また客観的要素を重視して刑法と道徳倫理との過剰な混同(これが行き過ぎると、戦前の不敬罪のような犯罪の出現を招くことになる)を防ぐという意味において優れているとも見られますが、刑法各論や刑事訴訟法、また民法などの他の科目との整合性を考える場合には、やはり行為無価値論のほうが学習しやすいと思われるのです。
行為無価値論のメリットは、1.構成要件、2.違法性、3.責任という検討の中で、1番目の構成要件の検討の段階で「行為・結果・因果関係」という構成要件の客観面だけでなく「故意・過失」も構成要件の主観面として検討することになるので、刑法総論の重要な論点の大部分を構成要件の段階において検討することになるところです。結果として、2番目の違法性においては正当防衛や緊急避難等、刑法35条から37条の違法性阻却事由のみを検討すれば足りることになり、3番目の責任においては責任能力等、刑法39条以下の責任能力を検討すれば足りることになります。
語弊を生む可能性を承知でわかりやすく言えば、1番目の構成要件の検討を終えた段階ですでに犯罪成立に8割方近づいており、残り2割を違法性・責任で検討するような感覚になります。
これは、実際に答案を書く段階になってわかりますが、法律の世界によくある「原則・例外」パターンに近い感覚です。
構成要件の検討において犯罪が成立しそうかどうかの見通しがほぼつくわけです。ただ、最後に念のため違法性阻却事由の有無や責任阻却事由の有無を確認して例外的に犯罪不成立とならないかどうかを確認するという流れになりますので、文章として書きやすいです。
また、これは刑事訴訟法における主張・立証責任の所在ともリンクします。検察官は基本的に被告人が構成要件に該当する行為をしたことを証明すれば原則として有罪判決をとることができ、違法性阻却事由や責任阻却事由がある場合は被告人・弁護人から主張せねばならない(最終的な立証責任は検察官にあるが、被告人・弁護人からの主張は必要)という構造ともよく適合します。
したがって、刑法総論の学説としては結果無価値論が優勢なようにも思われますが(実際に書店で基本書を立ち読みすると結果無価値論の本が多いですね)、受験・実務に臨むのであれば行為無価値論のほうが優れていると思われます。
行為無価値論の欠点としてよく言われるのが、構成要件や違法性の検討において主観的な要素、ひいては倫理的な要素が入り込むことになり、理論的な精緻さを欠くという批判です。
たしかに行為無価値論の基本書の代表格である大谷實教授の『刑法総論講義』を読むと、重要な論点のほとんどで「社会的相当性」という、法律の条文にもなく内容もやや曖昧な言葉を用いて結論を導いているところが多いですが、この「社会的相当性」が、特に旧司法試験の時代には「マジックワード」(それさえ書いておけば何とかなるという理由で安易に使われる言葉を皮肉に評したもの)とされており、受験生からの評価も高くはありませんでした。
しかし、昔の司法試験では「○○説でなければ書けない」と言われるような問題が出題されたこともあったと聞きますが(実際に○○説でないと書けなかったかどうかまでは定かではありませんが)、今の司法試験はそこまでを求めていないはずです。
旧司法試験のように一つの論点について厚く学説を検討させるような問題はなくなり、学説を覚えていることよりも、比較的長文の問題から論点を抽出して要領よく結論を出すことが求められています。旧司法試験の末期(平成15年前後)からは既にそういう流れがありました。
したがって、司法試験も今や細かい論証で差をつけるようなかたちの試験ではなくなっていると思われますので、受験及び初心者向け学習に限った話ではありますが、行為無価値論の優勢は揺らぐところがないと思われます。