取調べと公判廷(刑事事件が行われる裁判所の法廷)には,幾つかの大きな違いがあります。
一つは,取調べは警察官や検察官が行うが,公判廷は中立な裁判官(裁判員)が行うこと。
次に,取調べは非公開の密室で行われるが,公判廷は誰でも傍聴できる公開法廷で行われること。
さらに,取調べは弁護人の立会いが認められないが,公判廷では弁護人が被告人をサポートできること。
そして,さらにもう一つ実務的なことを言えば,取調べ(被疑者)の段階では被疑者は警察官がどんな証拠があるか見ることはできないが,公判廷では裁判所に提出される証拠は全て被告人や弁護人も見ることができること,です。
この最後のポイントが非常に重要です。
在宅調べとならない典型的な刑事事件では,被疑者が逮捕されてから起訴されるまでの最長23日間に取調べ等の捜査が行われるわけですが,この間は被告人は,どんな証拠が集まっているかを見ることができません。そして,弁護人も同様です。
ですので,逮捕された方と最初に接見した弁護士も,警察がどんな証拠を集めているのか全く分かりません。
例えば痴漢事件で無実を主張したい場合でも,警察は,逮捕するからには当然,被害者(と名乗る人)の証言(供述調書)くらいは揃えているだろう,とは推測できます。
しかし他にどのような証拠を警察が揃えているのか,その被害者の証言しかないのか,あるいは他に目撃したと主張する人がいるのか,いるとして誰なのか,それとも何か被害者の衣服に被疑者のDNAでも着いていたのか,当時の社内の状況を撮影していた防犯カメラでもあるのか…。このあたりがわかりません。
取調べでは,取り調べる警察官や検察官は当然,その時点までの全ての証拠を把握しています。
ですので,被疑者はいとも簡単に追い詰められてしまいます。
取調べの際に一番怖いのは証拠を見なければわからないような質問を受けたような場合です。
公判廷であれば,被告人は裁判所に提出された証拠,つまり主要な証拠は,被害者・目撃者証言も含めて概ね見ていますから,弁護人と打合せの上,自分なりによく記憶を復帰して組み立てて答えることができます。
しかし,取調べの場合だと,警察が本当にその情報を知りたくて確認しているのか,それとも後で「虚偽の弁解をしている」という材料に使うための泥船なのか,全く読めません。
近年,多くの事件で,逮捕された被疑者が「黙秘」するのはこのためです。
証拠を揃えている(かもしれない)捜査機関に,無用な揚げ足をとられないための防御策です。
やっていないなら弁解すればいい,というふうに思われるかもしれませんが,例えば自分はやっていないという場合でも,周囲の物事の全ての経過を記憶している人など,被疑者でなくともまず,いないはずです。
例えば,ある日に帰宅する途中にコンビニエンスストアに立ち寄ったことがあるか,立ち寄ったとしたらどこのコンビニエンスストアか,ということを一週間くらい経ってから何も見ずに思い出せと言われてもできない人は多いでしょう。警察や検察は事件があれば関連するレシートも防犯カメラもGPSも証拠として押さえますから,情報格差はやはり生じるわけです。どこに立ち寄ったかなど一見関係なさそうなところで揚げ足を取られて精神的に追い詰められる材料となることもよくあることなので,被疑者は,最大の防御手段として「黙秘」するわけです。
ここまで説明した通り,警察官や検察官は証拠を見て周辺的な事実関係を「こうだ」と確認してから取り調べているのに対し,被疑者は「こうだったかな…」というあやふやな状態で供述せざるを得ないのです。
取調べがどれだけ可視化されても,取調べは被疑者にとって圧倒的不利であることの理由です。
これが,自由に議論できる場所であれば「そちらばかりが情報を独占しているのはおかしいでしょう」と言い返すこともできます。それがまさに公判廷です。
しかし,取調べは大抵の場合,自由に帰っていいよという取調べではなくて,逮捕・勾留という状況下でなされています。
身に覚えのない痴漢えん罪で逮捕されたときの心境を想像してみれば(会社には逮捕されたことがバレているだろうか…,ローンの返済は…,家族は,娘はどう思っているだろうか…,もし報道されていたら親戚から何か連絡が来ているだろうか…,裁判をしたらどのくらい時間と金がかかるだろうか…,来年度に予定されている海外出張は…等々),不安と恐怖で一杯なことはお判りいただけると思います。
そのような状況下で証拠も見せられず連日,理詰めの取調べを受ければどうなるでしょうか。
特に性犯罪事件の場合は,被疑者の自宅PCのハードディスクやインターネットのアダルトサイト閲覧履歴まで,警察は全て調べることがあります。
別に殴られたり脅されたりしなくとも,「やってないけど,やったと言って示談してしまったほうが…」となってしまう人もいるのではないかと思います。
実際にこの懸念が実現してしまい,無関係の市民にえん罪で処分が下されてしまったのが,「パソコン遠隔操作事件」です。
取調べ,特に身柄拘束をしての取調べはそれ自体が多分に人権侵害的な契機を含みうるものなのです。
「自分はやっていない」あるいは「そこまではしていない」という被疑者は多いのですが,そのような被疑者は,物理的な加害を受けなくても,精神的にはサンドバッグ状態で取り調べに晒されます。
その中で気の迷いや精神的疲弊から「私がやりました…」と言わされてしまう場合もあるでしょう。
上記の「パソコン遠隔操作事件」がその例です。
自白をした被疑者には捜査機関はとても優しく接しますから,嘘でも自白をしたらもう覆せない気分になってしまったと推察されます。
そのような取調べの状況を録画したものを公判廷で流せば有罪がとれてしまうというのでは,公判廷は取調べの「上映会」となってしまい,被告人(弁護人)も自分の言い分を原則としてフルに主張して検察官と議論を戦わせることができる,裁判官のみならず一般市民にも傍聴人という立場で人権侵害や不当な引っ掛けがないかを監視してもらえる,という公判廷のメリットが全くなくなってしまいます。
ですので,取調べの録音・録画による有罪立証は問題があるのです。
今市事件の東京高裁判決は,公判廷が取調べの録音・録画の「上映会」と化してしまうことを防ぎ,取調べの録音・録画は自白調書の任意性を確認するための手段としてのみ位置付けたことはその点で高い意義があります。
しかし,法制度レベルでは刑事訴訟法の対応は未だ不十分であり,えん罪を生まない社会の実現(人権保証)の点からすると,今後は,取り調べへの弁護人立会い権・捜査段階での証拠開示等を法制化していく必要はあると思われます。