少年法は批判を受けることの多い法律です。
少年が事件を犯しても軽い処分になる、名前が公開されない、そして前科にもならないから少年が好き放題に非行に及ぶことを容認してしまうというものです。
それゆえに少年法の適用対象を縮小するであるとか、あるいは厳罰化するであるとかの提案が出てくることになります。
ただ、議論の前に、なぜ少年法が成人の場合よりも寛容な手続を定めているのか、その趣旨を理解する必要があります。
まず、単純に、少年(子ども)というのはきわめて未熟であるがゆえに、ただ厳しく処罰すればいいというものではないということです。
中学生~高校生くらいの時代に、テレビで騒がれるような凶悪犯罪や、または不良交友とか暴走族で騒ぐというところまで行かなくとも、一切法に触れる行為をしたことがないという人は、そこまで多くはないのではないかと思います。
例えば、仲の悪い同級生と喧嘩して、腹立ちまぎれにその同級生に向かって石を投げつける行為。これは命中しないとしても命中する現実的な危険性があれば「暴行」罪にあたります。
例えば、何か悔しいことや腹立たしいことがあって学校内のベニヤの壁を蹴って壊したり、備品を叩き壊してしまう行為。これは「器物損壊」罪に当たります。
また、鍵がかかっておらず何か月も放置されているようだからということで他人の自転車を持ち去る行為(窃盗罪または占有離脱物横領罪)、今はSuicaの普及で絶滅した犯罪ですが定期券を利用して乗車駅を偽り運賃ひいてはお小遣いを節約するキセル乗車行為(詐欺罪)、そのくらいであれば、というのはおかしいですが、細かく言っていけば何かしら疚しいことをただの一度もしたことがないという人などほとんどいないのではないかと思います。
大人であれば上に挙げたような例はいずれも立派な犯罪に該当します。
つまり、有罪となれば、仮に執行猶予であっても前科一犯となるわけです。
ただ、少年時代のちょっとした軽はずみさ、若気の至りで、前科という重い烙印を背負わされてしまうとしたら、それはそれで問題があるのではないかと思います。
もちろん、良家に生まれて、しつけも教養も十分な中で育ち、同じように良家の子女が集い、不良交友や、粗暴だったり野卑だったりする生徒ともまったく無縁なハイクラスの学校で文字通り品行方正に育ったというのであれば、そのような非行とは一切関係なく育つこともできるのかもしれません。
しかし実際には、そんな恵まれた環境下で育つことができるのはごく一部です。
大半は、もちろん品行方正な級友もいるにせよ、雑多な考え方や行動形態をもった級友や大人の中で育つものですし、またその中で褒められない行為や非行にあたる行為をしてしまうこともあると思います。
それを見つかって叱られて、その中で社会のルールを学んでいく面もあると思います。
そうした成長過程における行為を一つ一つ、大人と同じように「犯罪」として処罰してしまったのでは、伸びていくものも伸びていかなくなる。それこそしつけも人格素養も十分な、「天使」のような子どもしか残らなくなります。ただ、それでは社会が立ち行きません。
そのための少年法だということはまず一つ重要な前提であると思います。
上記で述べたのは比較的軽い類型の非行に関してですが、重大な非行に関してもただちに成人の犯罪と同様に処罰してよいかという点には問題があります。
基本的に少年というのは他人に、特に親をはじめとして近い大人に影響されやすい存在です。
教育・養育に無関心な家庭で育った場合、また虐待を受けながら育った場合、その歪みがその少年に近い少年や、または全くの他人に向いてしまうことがあるかもしれません。
また、表向きそんなひどい家庭ではなくても、少年の心に歪みが生じてしまう場合もあると思われます。たとえば親が高学歴で裕福な家庭であっても、家族関係が冷淡である等の要因で情緒的にきわめて未熟なままで年齢だけは進んでしまうというケースもあるはずです。
そんな少年が非行(犯罪)を犯してしまったという場合に、その責任を全部その少年に負わせてもいいものかどうか、周囲の大人に問題はなかったのか(個々の大人の問題というよりも、少年を取り巻く環境として)というのが、重要な問題意識です。
もう一つ、少年(子ども)の社会や少年犯罪は大人社会の鏡であるとも言われます。
大人社会で勤労の美名のもとに無茶な労働条件で働かせるブラック企業や、立場の強いものが立場の弱い者を一方的に迫害するパワハラが問題になっているのに、子どもに対して、いじめをするなとか弱い者にやさしく、と言ってもおそらくあまり響かないのではないでしょうか。
立派な大人が不祥事を隠ぺいするのに、子どもに対しては正直であれと言っても響かないでしょう。
さらに、たとえば暴力衝動を煽る情報媒体や、たとえば誤った性知識を煽る情報媒体の存在も見過ごせないところです。そういった情報媒体(作品)が存在すべきでないとも言いませんし、一切少年の目に触れさせるべきではないとも思いません(ネットで幾らでも情報を収集できる現代では何の意味もないと思われます)。ただ、少年非行・少年犯罪を考える時に、そういった誤った、あるいは偏った情報を娯楽として処理しきれず、かえって感化されてしまうという少年の性質をよく考える必要はあると思われます。
要は、少年犯罪の原因すべてを少年個人の資質に還元して考えることはできないこともあるということで、ありきたりな言い方ではありますが、社会が生み出した非行、「生み出した」という言い方が少年本人の責任を否定しているようであり妥当でないというのであれば、社会が影響を少なからず与えた非行という側面がないかどうか、この点もよく考える必要があると思われます。
これは単純に「少年には優しくすべきだ、少年犯罪には甘くすべきだ」と言っているわけではありません。
弁護士としては斜に構えたような言い方ですが「非行少年は必ず更生できる」というのも一種のファンタジーに過ぎないと考えています。更生できる少年もいるとは思いますが、結局立ち直れずに非行・犯罪を繰り返す少年もいます。更生できるように頑張れ、と口で言うのはたやすいですが、普通の人間ですら生きにくさのあるこの世の中で、一種のハンディを背負ってなお努力し続けるというのは生半可なことではありませんし、それに耐えられるだけの意欲と能力を保ち続けることもまた大変難しいことだろうと思います。
ただ、それでも現状で厳罰化をすべきかどうかに関しては慎重に考えるべきだと考えています。
上に述べてきた通り、少年犯罪に関する問題を、その少年個人に厳罰を科すことのみで事足れりとしていいのかどうかというとそうではないと思うためです。
全ての子どもに十分な教育と情緒的発達の機会が与えられているような社会であれば、そこからはみ出した者を厳しく処罰することも有り得るかもしれません。
ただそうではなく、やむを得ないこととは言え日本社会が階層分化し、家族の形態も多様化しつつあり、精神的・経済的に恵まれた環境にいる子どもとそうでない子どもが出ているような状況下では、厳罰化をしたところで、ある意味では大人社会が作り出した社会的な歪みや矛盾のしわ寄せを未熟な少年に転嫁するような結果になりかねません。
適用対象縮小、厳罰化を頭から否定するわけではありませんが、適用対象縮小、厳罰化ありきの議論は、本質的な問題から目を背けさせてしまう結果にもなりかねないという趣旨です。
他方で、「少年や少年犯罪の性質も時代によって変質しているのではないか」という観点からの、現行制度に対する批判に対しては、法曹ことに弁護士の側で充分に応えきれているかというとそうではないかもしれません。
今はインターネットの社会で、子どももスマートフォンで世界中の情報に(有害なものも含めて)接することのできる世の中になっています。生活に必要な知識すら、大人を経由するのではなくてインターネットで直接知ることができ、また電子メールやLINEを使えば大人の目に全く触れない仲間内だけのコミュニケーションを作ることができます。携帯電話などなく、学校にクラスごとの連絡網があった時代、大人社会のことは何でも親や教師から聞いて育った時代の人間からすれば隔世の感があります。
そのような時代に、果たして今まで通りの「(非行)少年」像を堅持するだけでいいのか、精神的にはともかく犯罪に関して大人並みの知識と狡猾さを得た少年が出現しつつあるのではないかという点に関しては、やはり検討せねばならないことであろうとは思います。