ソフトなファシズムと国旗損壊罪
ソフトなファシズム
独裁的な政治家のことを指して、ファシズムだヒトラーのようだ、あるいは戦前回帰だと批判する。
政治論戦でよく見られる状況です。
ただ、これを言いすぎることのリスクというのがあるように思われます。
皆さん学校教育で
ファシズムとは典型的にはドイツ
特高警察による言論統制
ヒトラーといえばアウシュビッツの収容所で民族虐殺を行った最悪の指導者
戦前と言えば治安維持法
言論は取り締まられ牢獄に繋がれた
そのことは学んでいます。
それはたしかに真実と思います。
ただ、これは逆方向のリスクを生じさせます。
目の前に起きているファシズム的現象に関して
「ナチスほどじゃない」
「ヒトラーほどじゃないしアウシュビッツ虐殺のようなこともない」
「治安維持法じゃないから反対派が全員牢獄に繋がれるわけではない」
→「だからこれはまだファシズムじゃないんだ」
と考えてしまう、という危険性です。
別の項で論じたかもしれませんが、子供たちに「いじめは犯罪だ」と言いすぎることで、かえって「これは犯罪じゃないからいじめじゃないんだ」と、実際にはいじめなのに、子供たちに(あるいは事態に対応したくない教師に)自分への言い訳を作らせてしまうのと同じです。
例えば
1 反政府的な言論を述べた政治家や有名人がSNSで徹底的にバッシングされる
2 切り抜き動画で無能政治家、あるいは何もわかっていない馬鹿者のように編集される
上記いずれも、虐殺されてもいませんし、牢屋に繋がれてもいません。
しかし、SNSで情報が流布される現代社会において上記はいずれも十分にファシズム的現象です。
ファシズムあるいは人権無視の独裁というのは為政者が幾ら煽ったところでそれだけでは成り立ちません。
それに追従し追随する、権力に服従することを是とし権力に服しない者を寄ってたかって攻撃する大衆があって、初めて成り立ちます。
現在がまさにそのような状況です。
反権力的言動が「聴いてもらえない」「無視される」ならまだマシで、執拗に晒され貶められバッシングされます。
世界中の情報に触れることができるスマートフォンが、かえって人を煽る道具と化してしまっていることは皮肉なものです。
なお、私は反権力が正義だと申し上げるつもりではありません。
まして特定の政治勢力が正義と申し上げるつもりもありません。
しかし、例えば「戦争反対」であるとか国会前デモであるとか、「大きな」話にばかり収束してしまいがちで、生活の中に少しずつ忍び込んで浸透していく、言わば「ソフトなファシズム」が過少に見られているのではないか。それこそが懸念されねばならないのではないか。
(既に「ソフト・ファシズム」という言葉を用いている先人がおられますが、私もそれと似たようなことを考えておりました)
反権力的な発言をした政治家や有名人がSNSでバッシングされる現状には強い危機感を覚えております。
正当な批判はあってしかるべきですが、言われなきデマや切り抜き動画での貶めは許されることではないと考えております。
このような状況がいつまで続くのか、そのように思う憲法記念日でした。
国旗損壊罪案に関する疑問
2026年5月現在、国旗損壊罪について、法制審議会すら通さずに国会議員が検討している状況のようです。
しかし、私もいち弁護士・いち法曹として疑問が尽きません。
そもそも外国の国章を損壊すると犯罪になるのは、それが「外交に関する罪」であって保護法益が外交関係であるからです。
かつ、外国国章損壊罪は親告罪なので、その国旗を害された外国の判断で特に問題ないと考えるのであれば起訴されえません。
したがって、外国の国章損壊罪があるのであるから日本国旗にも損壊罪を、というバランス論的な理屈は成り立ちません。
日本国内で日本国旗を損壊したところで外国との外交関係に影響はないからです。
憲法の観点から考えると重大な問題があります。
世の中には、国旗のほかにも様々なマークが溢れています。
典型的には校章や社章、そういったロゴデザインです。
今回の国旗損壊罪は、およそ世の中に存在するあらゆるマークの中で、日本国旗(日の丸)についてのみ、それを大切に思う国民感情(保護法益)があるからという前提をとったものです。
しかし、なぜことさら日本国旗だけを大切に思う気持ちについて、「刑罰による強制」で尊重させようとするのか。
人には様々な価値観や心情があり、それが個人の自由であり個性です。
日本国旗を見ると涙が出てくるというくらい日本国旗が好きな人もいると思います。
他方、日本国旗を崇拝したり神聖視したりできないという人もいると思われます。特に戦時中だったかと思いますが、「教育勅語」を落下させてしまい自決した校長がいたなど、そのような思想統制・愛国心強制の昏い歴史から日本国旗が好きではないという人もおられるかと思います。
あるいは日本国旗を見ても何らの感慨も、逆に言えば反発も抱かないという人も大勢いると思われます。
どれも自由です。どれが正しく、どれが間違っているというものではないですし、優劣はありません。
一部後述するように難しい(価値相対主義に徹しきれない)ところはあるにせよ、価値観の相対性、つまり絶対的に正しい価値観などない、個人がそれぞれの価値観で生きてよい、とするのが憲法の精神です。
この憲法下で、国旗を大切に思う感情だけを尊重するということは、価値観の相対性という最重要概念について国家が介入して「この価値観が正しい」と宣言しているに等しく、思想・良心の自由(憲法19条)に反します。
多数者が大切に思っているからいいのだ、というものではありません。
憲法は多数者支配(ある意味では弱肉強食)の民主主義が国民の個人個人の尊厳を奪うことがないように定められているものです。
このように言うと、現行刑法にも、公然わいせつ罪や墳墓損壊罪など感情を保護法益にした犯罪類型があるではないかと言われるかもしれません。
しかし公然わいせつ罪はそれを見せられる個人の性的自由(見たくないという人権)、墳墓損壊罪は、死後掘り起こされることなく安らかに永眠したいという、間接的には個人の尊厳に由来しているものと見るべきですので、そのような個人の尊厳に由来しない単純な不快感情を保護しているわけではありません。
必要性についても疑問があります。
例えば日の丸を嫌う学校教師がいたとして、学校で保管している日本国旗を損壊した場合、器物損壊罪、また、それが式典の最中などに行われた場合などは業務妨害罪に問う余地もあります。
そもそも、刑罰に問わなくても教育上の教師に対する懲戒処分(前科にならない)で対応すれば十分というところでもあります(この点、君が代不起立に関する懲戒処分の是非について最高裁判例があります。結論には疑問も残りますが、論理としてはきわめて慎重な論理を用いています)。
ことさら国旗損壊罪を設ける必要性があるとは思われません。
そして、報道によると、思想良心の自由に踏み込まない趣旨で、逆に言えば、損壊の主観的意図は問わず損壊を処罰するというのです。
上記の外国国章損壊罪にすら「外国に対して侮辱を加える目的で」という絞りがあるのに、それを消すということのようです。
(追記)
一応「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者」という要件のようですが、まず前段の「人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」の、不快や嫌悪と言った言葉は曖昧と言わざるを得ません。ここでいう「人」とは具体的な人である必要はなく(「方法」にかかる修飾語であるため)一般的・抽象的な「常識人」を想定していると思いますが、それがどのくらいの感性の人を基準としているのか、神経質な人や繊細な人であれば何をしても不快や嫌悪に感じることになるのではないか、全く不明確です。
また、汚損や損壊も曖昧と言えば曖昧ですが、「除去」という言葉はより一層曖昧です。要は単なる「片付け」も該当しうることになります。
このように、客観的にあいまいな行為態様を規定するだけで、目的の有無(意図)を問わないのであれば、処罰範囲が無限定に拡大することは目に見えています。
なお、論拠となっていたはずの外国国章損壊罪は目的の有無を問題にする条文となっていますので、この時点で、外国国章とのバランスという理屈は完全に崩れています。
これは例えば、日の丸に寄せ書きで「がんばれ日本」「負けるな日本」と書き込んだ場合でも、書き込み方によっては損壊に該当しうるという結論になります。
意図を問わないとはそういうことです。
おそらく、考案者は、損壊者が「日本を悪く思う意図なんかありませんよ」と言い訳するのを防ぐために目的を問わないことにしたのかもしれません。
これこそがリーガルマインドの欠如というものです。
刑法というのは、目先の、処罰するための便利さを追求してしまうと、別のところで、本来処罰すべきではない行為を処罰することになってしまうというひずみをつくってしまうのです。
この点、「裁判所が適切に判断するのでは?』と思う人もいるかもしれません。
しかし、それは近代刑事法の最重要概念である「罪刑法定主義」に反する発想です。
憲法31条の適正手続の理念の一形態として、罪と刑罰の枠組みを明確化することで国民の予測可能性を確保する(≒自由を保障する)のです。
曖昧かつ抽象的な文言であとは適宜裁判所に任せると言うのでは、国民は、何をどうすれば逮捕され処罰されることになるのか予測がつきません。
任された(というより丸投げされた)裁判官としても、そもそも立法の際に憲法や刑法の専門家による十分な議論がされていないのですから、判断に窮することでしょう。
立法の際に本来なされるべき綿密な議論を放棄して現場の判断に責任を負わせる、最悪の丸投げと言ってもいいかと思います。
そもそも、現代日本は、いまだに推定無罪の原則が根付いておらず、推定有罪の社会です。
マスコミの見識の不足ゆえですが、逮捕報道は多くが実名ですから、逮捕報道が流れるだけで、少なくとも職業生活が終わってしまいますし、その地域では暮らしていけなくなるでしょう。
後で無罪判決が出ても同じことです。
だからこそ、刑法学が存在し、保護法益は何か、そして刑罰の謙抑性にかなっているか、罪刑法定主義の要請を満たしているかを慎重に判断するのです。
現在の検討状況は、そのような綿密な議論を欠いているように思われます。
そして、国旗損壊罪は、自己の所有する国旗であるかどうかを問わないそうです。
これも「これはぼくの所有する日本国旗ですよ、これをどうしようがぼくの自由でしょう?」という言い訳をさせないための策かと思われますが、そうであれば、一度でも出来上がってしまった日本国旗は迂闊に処分できないことになります。
作成した時点でどう処分しようもないものが出来上がることになりますので、かえって日本国旗が忌み疎まれることになるのではないでしょうか。
汚損したのが中学校に通うの少年だとしても、14歳以上であれば「非行」として全件が家庭裁判所送致されますから(少年事件を捜査した場合は必ず家庭裁判所に送致することを全件送致主義と言います)、各学校や各家庭では児童生徒にも絶対に触れさせないようにするのではないかと思われます。
刑法は、本来はそんな世の中にしないための法律です。
厳格な要件の下、刑罰を定めています。
逆に言えば、刑罰に問われるような犯罪行為を事前に規定することで、それ以外の行為を犯罪とはしないという自由保障機能もあるのです。
国旗損壊罪の議論は、基本的なところから、憲法だけでなく、刑法理論・刑事訴訟法理論・人権保障のための観点から抜本的に再検討されるべきものであると考えます。

