本文へ移動

学校問題

学校問題と電話相談について

仙台弁護士会はいじめ・虐待・体罰等の、学校や家庭における子どもの権利の問題、その他子どもに関する悩みごとについて、専用の相談ダイヤルを設置しております。

TEL:022−263−7585
毎週 月曜日から金曜日の午前9時から午後4時30分まで受付です。
詳細は仙台弁護士会のホームページをご覧ください。

この「子ども悩みごと電話相談」には仙台弁護士会の多くの弁護士が協力しております(担当割り当て週が決まっております)。
週によっては当職も担当いたしますのでよろしくお願いします。



なお、いじめ等の深刻な問題がある場合は、当職の事務所に直接御連絡いただいてもけっこうです。
秘密は厳守しますので、特に(このページを見る子どもさんはそう多くないかとは思いますが)何か悩みがある子どもさん本人から御連絡いただいても対応可能です。

TEL:022−395−9925

連絡をいただいた方が未成年の場合には費用の点はひとまずおいて相談対応を優先いたしますので、悩んでいる子どもさん・未成年の方は遠慮なく御連絡ください。

いじめ問題

1.「いじめられる側にも原因がある」は筋違い

いじめは学校において生じる問題としては古い歴史がある反面、法的な問題としては比較的新しい部類に属します。
おそらく、従前は学校内で内々に処理されてきた、あるいは見過ごされてきた問題が、学校を中心とした地域的な結びつきの弱まりと、また権利意識の高まりにより、徐々に司法のフィールドにシフトしてきたものと思われます。

まず、「いじめられる側にも原因がある」という論理は、いじめの原因を考える上で絶対的に否定できる話ではないにしても、それはいじめ行為自体を正当化できる要素にはなり得ません。
宿題をよく忘れる、運動神経が良くない、雰囲気が浮いている、それは何らいじめを正当化する理由にはなりません。
いじめは放置すればするほどエスカレートします。
初期段階で対応すればそこまで深刻化しないであろう問題でも、放っておくとどんどん悪化していきます。

例えば、最初は立場の弱い子に宿題を「手伝わせる」であったものが、そのうちエスカレートして宿題を「全部やらせる」に悪化していったという話を聞いたことがあります。そのことは子ども達の間でだけ知られており大人は知らない。立場の弱い子は搾取され続けるばかりです。

立場の弱い子にも全く原因がないのかと言われればそうではないかもしれません。
ただ、だからといってそれぞれが自分でやるべき宿題を二人分も(もっと悪化すれば三人分以上も)させられることを正当化する理由には何らなり得ません。

いじめはとにかく何としてでも大人が介入して早く止めるべきだと考えています。
いじめられている側にも原因があるというのであれば、とりあえずいじめを止めさせてから後でいじめられていた側にも自分の行動を振り返らせることができれば十分でしょう。いじめという暴風に晒し続けることを正当化する理屈は存在しません。

 

2.「いじめに立ち向かう強さ」という論理に対する疑問

今の時代になっても「いじめに対しては勇気を出して自分の力で対抗できるようにならなければ駄目だ」という意見を聞くことがあります。
特に男子児童・男子生徒に対してよく言われるように思います。
昔ながらのマッチョイズムで、男は強くあれという大前提、それに基づいた意見であり、一見すると良いようにも聞こえます。

しかし、このようなスローガン的な見解をいくら押し進めてもいじめの問題が解決することはないと思います。

要するに「立ち向かえ」「やり返せ」というのは、いじめている側の人間が殴ってきたら殴り返せ、ということでしょう。
しかし、暴力は良くないなどという以前に、殴り返すくらいの「力」(腕力というだけではなくてクラスルーム内での「権力」という趣旨を含みます)のある者であれば、そもそもいじめのターゲットにならないでしょう。

大体は、教室における暗黙のヒエラルキー(現在はスクールカーストとも言われます)の最下層か、とりあえずクラスのボス格の仲間ではあるもののその中では最も力が弱い者が狙われることが多いと思います。
勇気を出したくても出せない、体を鍛えて殴り返したくてもそれができない。
そういう者を狙っていじめは行われます。
こういうターゲット選定に関する子ども達のセンスは、大人では計り知れない、恐ろしいものがあります。
むしろ大人になると自分の仕事や家庭のことで頭が一杯になって、誰がどういった性質の人間かということにはそこまで深い関心を払わなくなりますし、肩書き同士の付き合いがほとんどですので、むき出しの、素の人間性同士で接することというのはほぼ無くなります。
ただ子ども達はクラスルームにおいて、性格・容姿・能力全ての部面において全人格的に相互に観察しつつ日々をおくります。それだけに、そういった感覚というのは子どものほうがよくはたらいてしまうのかもしれません。

ともあれ、いじめというのは基本的には「抵抗する可能性がない・低い者を狙った継続的かつ物理的・精神的な暴力」です。
抵抗できないものを狙っていじめが発生するのに、「抵抗しろ」というのは無理な話です。

むしろ大人に助けを求めることを「虎の威をかる狐」のような行為であるとして卑怯な行為であるかのように言う向きもあります。
しかし、大人であっても、例えば暴力団に脅迫されたら警察に言うでしょう。また職場でパワーハラスメントに遭えば弁護士に相談するでしょう。
大人ですら国家権力や専門職に助けを求めるのに、子どもが助けを求めてはいけない理由は全くないはずです。

大事なことは、上手に、的確に助けを求めることは恥ずかしいことではないという意識を浸透させることだと思います。

 

3.いじめの加害者を特定することは難しい

クラスルームでのいじめは、基本的に集団的な事象です。

誰が加害者というのが特定できません。
主導的な立場に立つ者がいるにはいますが、実際にはいじめに加わる者と、それを見てみぬ振りしつつ主となるグループにおもねっていじめに時々参加する者、そしていじめを傍観する者がいます。

いじめの被害者から見れば、それら全員が「加害者」に見えるものです。
特に、いじめの加害者であっても、その中で立場の弱い者は、現在のいじめの被害者をいじめることが何らかの理由(学校に来なくなったなど)で、できなくなれば今度は自分がターゲットになる可能性があることが本能的に察知できてしまうがゆえに、かえって殊更にいじめに参加しようとすることもあります。
このため、実はクラスのボス格から始まったいじめなのに、被害者生徒の恨みはその、本来二番目に立場の弱い生徒に向かうこともあります。当然、その弱い加害者を叩くだけでは問題は解決しません。

そして、いじめの態様も巧妙化しています。
例えば教室に帰ると机の引き出しが開けられており中が荒らされている。物が盗まれる。黒板に「○○死ね」と書いてある。
このようないじめについては、そもそも(加害者が自己申告しない限り)加害者を特定できません。
また、最近ではインターネットの学校裏サイトや掲示板に個人が特定できるような形で誹謗中傷を書き込むというのもいじめの一態様でしょう。

漫画「ドラえもん」のジャイアンのような、根は人の良いガキ大将的な乱暴者が、正面からボコボコと殴りつけてくるような馬鹿正直ないじめは、現在においてはほぼ存在しないと見ていいでしょう。
そんな巧妙ないじめに、被害者一人の力で「立ち向かえ」というのはどだい無理な話です。
やはり大人の介入は絶対的に必要なのです。

4.偽りの正当化

子ども達には子ども達なりの論理があり、それはいじめについても然りです。

要するにいじめをするにあたって正面から「俺はアイツをいじめてるんだ」「おい、○○をいじめようぜ」と言う子どもはほとんどいません。むしろ、自分自身でも「いじめ」をしていると思っていない場合がほとんどでしょう。
彼らは自分の中で理屈をつけて、「いじめ」という行為を自分に対しても他人に対しても正当化するのです。
以下、過去に見た中で特に典型的な理屈を列記します。


「あいつ(被害者)がだらしないから鍛えてやっているんだ」

特に運動能力の弱い、体格の弱い者に対していじめがされる時によく聞かれる理屈です。
これを言われると、気の弱い被害者は「俺が弱いからいけないんだ」となってしまい、周囲にも「いじめを受けている」とは言えなくなります。
ただ、自己鍛錬というのはあくまで自分の意思でやるものであって、誰かに強制されるものではありません。


「一緒に遊んでるだけですから」

雰囲気的に浮いてしまう、友達の少ないことで悩んでいる者に対していじめがされるときによく聞かれます。
これも、被害者としては本気で加害者のことを「一緒に遊んでくれる」ありがたい相手としてとらえざるを得なくなるので、抵抗は出来ません。
ただ、遊びというのは対等だからこそ楽しいわけで、そこに恐怖心が入ってくるのであればそれは明確にいじめです。


「罰ゲームです」

これも上記に近いですが、偽りの公平性を演出している点でより巧妙です。
要するに敢えて腕力の弱い者と腕相撲勝負、走力の弱い者と鬼ごっこして、負けたら何か人格の尊厳を害するようなことをさせるというものです。
遊びや勝負自体はたしかに対等な条件なので、基本的に立場の弱い被害者は断る理由が思いつきません。さらに罰ゲームを甘受しない(「不公平だ!」と主張する)方策がありません。「自分のせい」にされるのです。
こういったいじめは、テレビ文化を否定するわけではありませんが、バラエティ番組で芸能人が過激な罰ゲーム等の企画をやり始めてから、子どもが特に真似するようになったと思われます。
しかし、芸能人はプロとして、当然事前打ち合せでは視聴者に面白く見せるために納得いくまで綿密な打合せをした上で企画に臨んでいます。そんな芸能人と子どもを一緒にする時点でおかしい理屈ですし、無理矢理芸能人のようなことをさせられる理由もありません。


「他の奴は何も言わなかった」

例えば、いじめの加害者グループの一人が皆の前で裸踊りをしたとして、いじめの被害者にもそれを強要するというようなものです。
要するに「他の奴は文句を言わなかった」「それで皆も何も言わなかった、むしろウケた」「だからお前もやってみろよ」といって強制するものです。
しかし、裸になったり露出することを何とも思わない(むしろ笑いが取れるのでオイシイと考える)子どもと、人前で上半身裸になるだけでも絶対に嫌だという子どもと、いろいろな性格があります。人間である以上性格の違いがあるのが当たり前で、無理に他人に合わせる必要は無いというのが大前提です。ですので、こういう間接的な強制の仕方もれっきとした「いじめ」行為です。正当化される理由はありません。

 

5.いじめを根絶することは不可能

仙台でも、2017年現在、いじめ自殺が後を絶たないという問題が報道されています。
ただ、安直に「いじめを根絶しよう」、という決意表明で終わりにするべきではないと思っております。
 
私は、いじめを根絶することは不可能と考えています。
学校という場の性質上、どうしても起こりうる問題です。
「絶対にいじめをなくす」「いじめを根絶する」という目標は非現実的です。
かえって裏目に出て、いじめ行為の無視、つまり学校側が実際にはいじめが存在するのに「なかったことにする」ことに繋がってしまうことを逆に危惧します。
 
中学生くらいになれば、思春期になって自我が発達する半面、気に入らない人、気の合わない人、嫌いな人、目障りな人と言うのは誰しも出てくるものです。
小学校時代のように、みんな仲良くとはいきません。
逆に、高校ほど自由が利くわけでもありません。高校は、最初の段階で学力や希望進路により、同じようなレベルの生徒が同じ高校に集まり、内部でも進路別のクラス編成がなされることが多い上、中学時代ほどには学級単位で行動しなければならない機会が多くありません。気の合わない同士、各々関わらないようにして行動すれば多くの場合はそれで済みます。
生徒同士がぶつかり合いやすい割に、同じクラスや部活で行動する機会、全人格的な交流をする(または、そういった交流を強制される)機会が非常に多いのが中学校です。
中学校でのいじめが問題になりやすいのはそのような背景があると思われます。
 
いじめがなくならない理由を、いったん加害者側の心理に立って考えてみます。
気に入らない、嫌いな人が同じクラスにいる。目障りで仕方ないとする。
しかし、教師は当然ながら「いじめは絶対だめ」「仲間外れは絶対だめ」と指導します。
(もっとも、生徒に迎合して、いじめを「悪ふざけ」として流してしまう教師も稀にいます)
そうすると加害者側は教師ではなく、自分達でその生徒を教室から排除しなければならなくなります。
 
もちろん客観的に見れば「気にしない」のがベストの選択です。
しかし、学校の生徒は、大人と違って、気に入らない相手とも日中ずっと一緒に過ごし、気に入らない相手の発言を聞き、気に入らない相手が友達と仲良く楽しそうにしているのを見なければならないわけです。
しかも、いったん決まったクラスや部活のメンバーは固定的で、何があっても不変です。配置換えや転勤、あるいは転職・退職という、大人にはある逃げ道がありません。
 
当然、加害者側も正面から「気に入らない」と言って、喧嘩を売ったり殴りかかったりはしません。
そんなことをすれば排除されてしまうのは自分のほうであることを、加害者側も十分にわかっています。
そこで、まずは、同じ相手を気に入らないと思っている他の生徒と結託するようになります。
これが「陰口」になります。
ただ加害者本人たちの間では、まっとうな不満だったり義憤だったり、正当化されていることが多いのです。
そうして、嫌いな相手・気に入らない相手の欠点や、過去の嫌な言動を蒸し返したりし始めます。
例えば「クラス対抗試合の時に一生懸命練習していなかった」「人を馬鹿にする発言をしていた」等。
加害者からしてみれば正義をふりかざしているような気分なのです。
 
加害者側の心理を言葉にすればこんなところでしょう。
悪いのは、嫌い・気に入らない相手であって、自分たちではない。
ちょっと懲らしめてやったほうが良い。
そうすればその相手も嫌われているのを自覚して、おとなしくなるだろう。
  
この段階で客観的に見れば、十分「いじめ」にはなっています。
しかし加害者側としては「いじめ」の感覚はないわけです。
むしろ自分達を被害者であるかのように考えていることもあります。
 
罪悪感をもっとも薄めるのは被害者意識でしょう。
実際には加害側なのに、困らせられているのは自分たちだ、と自己正当化してしまうのです。
 
気を付けるべきなのは、いじめ加害者が不適応な生徒とは限らない、ということです。
例えば、クラスはみんな仲良くすべきだと考えている生徒がいたとしても、そのような考え方が行き過ぎれば、友達の和を守らない、何かと協調しない相手というのが、気に入らなく見えることもあるのです。
同じように、人は常に向上心を持って頑張るべきだ、勉強なり運動なりで常に高いレベルを目指すべきだと考えている生徒からすれば、それについてこられない、合わせようとしない相手が気に入らなく見えることもあるのです。
いじめ加害者が不良生徒や不適応生徒で、優等生へのやっかみからいじめを行う、という典型的なパターンのみを想定するのでは足りません。
加害者が、優等生であったり、生徒や大人からも評判の良い生徒であるということもあるのです。
加害者が教師から好かれている生徒である場合、学校内における解決は難しくなることもあります。
  
いじめが根絶しえない前提で、いじめ対策として重要なことは、教師など大人の側で、いじめの察知と対応を迅速に行うこと、加害者側の言い分を鵜呑みにしないことです。
 
初期段階で重要なことは、どちらに原因があるかということを特定することではありません。
原因があるかないか、加害者側の言い分に理があるかどうか、加害者側が社会的・法的な責任を負うべきか、などは、後で検討すべき話です。
まずは「いじめ」、あるいはそれと疑われる事態の発生を認識し、迅速に他の教師に相談しながらいじめ行為を止めるように対応することです。
 
もっとも、「いじめ」発生を問題ととらえる現行の教育機関のシステム上、教師がこのような対処になるのはやむを得ないことかもしれません。むしろ、いじめ疑いの段階で報告と対応が迅速になされたことを評価する仕組みに変えていかなければ、問題は解決されないようにも思われます。
 
 

いじめに気付いた時の対策

本人の安全確保

自分の子どもがいじめられているのを発見したときにどうするか、という問題があります。
 
まず、いじめの内容が明確な犯罪行為である場合は警察に相談するのが最も速いと思います。
例えば恐喝で現金を取られた場合、殴られて怪我をした場合などです。
もちろん、いじめている側の生徒がいじめられている側の生徒に近づかないように、学校への通報も必要と思われます。
ことを穏便に済ませたい時に学校にだけ通報して警察には通報しないという選択もあり得るとは思います。しかし学校はどうしてもその後の学校生活を意識した話し合いがベースになると思われます。
相手の事情に関係なく証拠を保全することの速さと正確さでは警察に勝るところはないと思われます。
 
難しいのは、犯罪と呼べるほど明白な犯罪行為はないものの、精神的苦痛を与えるような行為があった時です(仲間外れ、無視など)。
村八分が脅迫罪になったという判例はありますが、時代も環境も現在とは違いますので(村八分にされると生きていけない状況であればともかく、仲間外れそれ自体が生命の危機につながるわけではない状況下であれば脅迫罪とまでは認定されない可能性も高いと思われます)、仲間外れにされたから脅迫罪成立とは言えません。
ただ、いずれにせよそのままにしておくわけには行きません。
本人が我慢しているうちは表面上は何も起きませんが、いじめている側が、本人が我慢していると余計に気に入らなくなって、さらにいろいろないじめ行為を、(犯罪にはならない範囲で)仕掛けてくることも有り得ます。
そうなると、いじめを受けている本人が耐えきれなくなって何らかの「こと」を起こすまでいじめが続いてしまうことになります。いじめられている子による、自傷他害(攻撃性を外に向けられなくなった場合は自殺未遂など、攻撃性を外に向けてしまった場合は武器使用等による反撃行動や、より弱い者へのいじめ・虐待など)の危険が生じます。
 
一概に言えませんが、学校に相談するか、学校に相談しても改善がみられない(あるいは従前の学校の対応ぶりからして改善がみられそうにない)ときは一度学校を休ませたほうがいいでしょう。
休ませている間に、学校と必要な調整を行うか、あるいは弁護士に相談していただいたほうがいいかと思います。
いじめられている被害者は、見た目には変化はないかもしれませんが、心の中では傷が開いたまま、だらだらと血を流し続けているような状態です。そのままにしておけば精神的な意味で失血してしまいます。その後の対処はさまざまなものが考えられますが、いずれにせよ当面必要なことは応急処置的にでも(精神的な意味で)止血することです。
 
この時に、いじめられている本人が「大丈夫」と言っても休ませるべきでしょう。大抵、本人がいじめを言い出せないのは、親に心配をかけたくないからであるとか、もしくは「いじめられている子」というレッテルを自分に貼ってほしくない(つまり自分の自尊心を守りたい)であるとか、そのような理由からです。
「何でいじめられているって言い出さなかったの」というのは、気持ちはそうなると思いますが、それは大人側の言い分であることを踏まえておく必要はあります。子どもは、いつでも親の前では「元気で活発で明るい子」「メソメソと泣かない子」「強くて、甘えない子」でいたいのです。いじめられている自分を誰よりも親に知られたくないという気持ちは当然あるでしょう。ただ、その守りたい自己イメージが現実と全くかみ合わなくなった時に大きな破綻が訪れます。
 
前の項でも書きましたが、大人でも、職場で上司からいじめに近い理不尽な叱責を受けたらもうその上司には会いたくないと思うでしょうし、少なくともしばらくは何とかその上司に会わないようにしたいとは思うでしょう。それに「俺は上司にいじめられている」とはなかなか言い出せないでしょう。特に同じ会社の同僚であればそれ自体上司の悪口になるでしょうし、職場外の友人や家族にだって、プライドが邪魔してそんなことはそう簡単に言えないはずです。
もちろん、社会人である以上はどこかで折り合いをつけなければならないことはあるのです。また、これも前の項で書いたように、大人社会の付き合いは表層的でも何とかなりますから、それでもやっていけることもあるでしょう。最悪、職場を離れれば少なくとも精神的にはそれ以上虐げられません。
しかし子どもにそれを求めるのは酷というものです。自分の力でその環境から逃げたり不満を解消したりすることができないわけですから、「逃げる」手助けは周りがしてあげる必要があります。
 
とても嫌なものから逃げたい、身を守りたいと思うのは人間として当然のことで、何も恥ずかしいことではありません。
一旦(精神的な意味での)安全を確保したうえで、どう対処するかをゆっくり考えればいいのです。
 
  

証拠の収集をどうするか

いじめを理由として訴訟を起こす場合には大きく分けて2種類の訴訟の起こし方が考えられます。
1.加害者を直接相手取っていじめ行為そのものについての不法行為の損害賠償請求
2.学校を相手取って児童生徒を監督する義務を懈怠していじめ被害を発生させたことによる賠償請求(公立学校なら国家賠償、私立学校なら学校法人に対する)
 
ただ難しいのは、訴訟を起こすにあたっては、請求原因(いじめ被害と、加害者が誰かという主張)だけではなく、そのいじめ被害の内容や加害者を特定できるだけの証拠が必要だということです。
恐喝や傷害等の明白な犯罪行為があった場合で、さらに警察に相談して捜査が行われた場合はこの点は比較的容易に解決しうると思います。
 
難しいのは、警察がすぐに動いてくれない場合(事件化しうるか微妙な場合)、その他明白な犯罪行為と言えるものがない場合です。この場合でも民事上の賠償請求はなしえますが、刑事ほどではないものの証拠は必要でしょう。訴えられた(いじめている)側がいじめを認めない可能性もあります。
 
いじめはある日突然発生するものではなく、時間をかけて徐々にターゲットが選定され、さらにエスカレートしていくものです。ですので、いつころから誰が何をしてきたという聴き取りは必要です。弁護士など第三者と直接話せる状態ではない場合は保護者の聴き取り結果をもとにするほかありません。言葉によるいじめであればその言葉をいつどんな状況で言われたかを詳しく、また、殴るというのではないにしても身体的ないじめ(その子の座っている椅子を軽く蹴るとか、プロレス技をかけるとか)があった場合は、それがいつどんな状況で行われたかを詳しく知る必要があります。
 
直接的な暴言などのいじめがあった場合は、本来は音声レコーダーによる録音等があると証拠として明確です。しかし、例えば1回「バーカ」と言われたという録音があるだけではそれがふざけて言われているのか、いじめの言葉なのかわかりづらいという問題はあります。経緯も合わせればもちろんいじめの言葉なのだろうなとは思いますが、相手に「もともと友達で、ふざけて言っただけです」と言い訳させる余地を残すことになります。ですので、結果的には上記のような本人からの聴き取りが最も重要となります。
 
なお、証拠を保全するためだからと言って、精神的にまいっていて「学校に行きたくない」という本人に、無理に録音機を持たせて学校に行かせるようなことは避けるべきでしょう。もともと相手を罠にはめるようなことのできない素直で優しい子がいじめに遭いやすいのですから、大人並みの策略を求めるのは酷というものです。
  
インターネット・通信関係でいじめのような文言があった場合、電子メールの通信記録があれば保護者のパソコンに保存するか写真撮影、LINE等の通信記録などがあれば、消去防止のために写真撮影、facebook等がある場合は印刷による証拠の保全が必要かと思います。
 
一応、民事訴訟法には「証拠保全」という手続(裁判開始前でも証拠を確保できる)が設けられていますが、主に医療過誤訴訟などで病院のカルテを確保するため等に使われており、いじめ訴訟で使われたという例はあまり聞いたことがありません。
 
 

いじめ問題にどう対応するか

上記の通り、いじめ問題が起きた場合、特に自分の子が被害に遭った場合には、まずは安全確保の見地から学校を休ませたほうが良いでしょう。
弁護士に相談していただくのはその後です。弁護士に相談したからと言って現在進行形のいじめをたちどころに解決できる保障は(少なくとも私の場合は)全くありません。
 
そして、子どもがいじめられたことに関する訴訟の相談を受けることも少しづつ増えていますが、訴訟を提起するには上記の通り難しい問題があります。証拠の関係です。
 
また、損害賠償をとること自体が目的ではないところ、現状、いじめ被害については不法行為や国家賠償のような金銭賠償請求が最終的な法的手段となってしまうので、目的がずれてしまう可能性があります。他の項で紹介した仮処分のような方法も理論上は考えられなくもないですが、大人なら「接近を禁ずる」仮処分もあり得るところ、同じ教室にいるのに「接近を禁ずる」仮処分ができるかどうか、仮処分命令が本当に出たとしても同じ子供相手にどこまで効果が出るかは不明です。
 
もちろん、いじめた側をただでは済ませたくないという気持ちはあるでしょう。「わが子はいじめられて学校に行けないのに、相手はのうのうとして学生生活を楽しんでいる、こんな不公平なことがあるか」と思うのは当然です。実際に訴訟提起をすれば相手は驚くでしょうし、いじめた生徒も、自分のしたことの重さを思い知ることにはなるとは思います。
ただ、いじめられた側の思い通りの結果がすぐ出るとは限りません。相手も弁護士をつけて反論してくる可能性は十分に有り得ます。そうすると長い時間がかかります。大人同士のちょっとしたもめごと(例えば隣地との境界線問題)でも、年レベルで時間がかかってしまうことは頻繁にあります。複雑ないじめ問題の場合は、感情も絡んで、なおさら延びる可能性があります。
訴訟提起の場合は、訴える側も訴えられる側も、相当の精神的・経済的負担を覚悟するほかないと思われます。
 
そうなると、訴訟提起は最終手段ではありますが、必ずしも最善の手段ではないということになります。
むしろ弁護士を前面に押し出さずに保護者から学校への相談(あるいは抗議)を継続して、クラス替えで善処してもらう、公立義務教育の場合は転校等の措置でいじめ被害が発生しないようにしてもらう等の柔軟な対応を要求・実現したほうが結果的には良いということもあり得るかもしれません。
 
いじめ問題は定型的ではなく事例ごとの個別の問題性があるので、最初聴いただけでどういう解決がベストであるかは、弁護士にもすぐにはわからないことが多いのです。何度かの法律相談を重ねながら、慎重に対応を検討することになります。
 
いずれにせよ、子どもがいじめられていると気づいた時は、まずは本人の安全を確保したうえで、後は警察か、学校か、あるいは弁護士に相談していただき、何がその子にとって最善かを考えつつ話し合うことを考えていただければと思います。
 
 

いじめの原因

いじめの原因1 ゲーム・遊び感覚

ゲーム・遊び感覚でいじめを行うということは実際多いと思われます。
まだいじめを非とする倫理観が育っていないことが原因です。
リーダー格の子どもがいじめを始めた場合にそれを止める者がいないときに発生します。
 
いじめている側はちょっとしたゲームや遊びの感覚ですので、罪悪感を抱きようもありません。
ただ面白がっているだけになります。
本来は理不尽な話ですので、いじめられている側としては怒るべきなのですが、いじめのターゲットになるような優しい子どもは怒ったり反撃したりすることができません。
相手に対して共感的になり過ぎて、決然として相手を跳ねつける(自他の違いを示す)ことができないのです。
 
個人の見解ですが、「いじめる側にも事情がある」という昔ながらの主張は「いじめられる側にも原因がある」と同じく廃されるべきだと思います。
 
事案によっては、いじめている側にも、家庭に問題があり子どもの心を荒んだ状況に追い込んでいるとか、もしくはその加害者自身も過去にいじめられておりコンプレックスがあるとか、そういう事情もある場合もあるかもしれません。
 
ただ、いじめている側のストレスなりコンプレックスを取り除けば問題が解決すると考えるのは危険だと思います。
遊び感覚のように、そこまで深く考えていない可能性も当然あるからです。
その場合は、加害者に対する理解や共感はさておき、まずは大人が介入して理非をハッキリさせるべきでしょう。
 
いじめられる側は、多くの場合共感姿勢が強すぎて対決姿勢を示すことができないのです。
「○○くんにも事情があるのかもしれない」「○○さんもいつか気が付いてくれる」
このように何とか共感しようとしては裏切られて、やがて絶望していくことになります。
 
これも個人的感想ですが、共感すること、相互理解の大切さだけを説いて、時には競争や対決(相手に対して、理解できない、という拒否を示すこと)も重要であるということを充分に教えられないという風潮にも原因があるように思います。
 
 

いじめの原因2 子ども達のルール

子どもが「子ども達のルール」に合わせられない、というパターンもあります。
知的・身体的に劣っているわけでないはずの生徒がいじめに遭いやすい類型ではないかと考えています。
  
小学校、特に低学年のうちは、子どもは大人の言うことにほぼ100%従います。
つまり大人社会が求めるルールと子ども達のルールとの間に乖離がない、あるいはそもそも子ども達の中にルールが形成されていません。
 
これが、小学校高学年を越えて中学校に差し掛かってくると、反抗期が始まり、子どもは大人の言うことに従わなくなります。子ども達が自分の世界を持ち始め、子ども達だけのルールを形成し始めます。
不文律的な行動規範とでも言うべきものです。
これは子ども達の成長と自立のためにはある程度必要なことだと思われます。
ただ、ここで、大人社会が求めるルールと子ども達のルールとの間に乖離が生じます。
つまり「大人社会(親・教師)に評価されること」と「子ども達の間で評価されること」とがイコールの関係で結ばれなくなってくるのです。
 
結果として、大人社会の求めるルールを遵守した「良い子」として褒められる生徒が、子ども社会の中で浮いてしまうことがあります。
それが単なる疎遠さに留まっている場合はまだ「いじめ」には発展しないと思われます。
問題は、疎遠になるだけでは済まず、迫害のレベルにまで達することです。
 
特に問題生徒のいるクラスでは、その問題生徒がリーダー格になってしまった場合に子ども達のルールが反社会的な要素の強いものになってしまい、大人社会の求めるルールを遵守する生徒との間で衝突を生じやすく、またいじめも生じやすいということはあると思います。 
ただ、あくまで確率や可能性の話であって、どんなクラスでも、些細なきっかけでいじめは生じうると見るべきでしょう。
  
ルールの乖離と衝突は、学校と生徒の間でだけ生じるものではありません。その家庭ごとの環境や教育方針の間で生じる可能性もあるでしょう。
小学校低学年の段階では家庭ごとの環境や教育の違いはさほど大きく出ないように思います。ただ、小学校高学年から中学校ころにかけて、各家庭の環境や教育が子どもの行動様式に与える影響は大きくなり、それだけ子ども達の価値観も大きく分化していきます。しつけや行動管理(門限)が厳し過ぎる家庭もあれば、放任・寛容過ぎる家庭もあります。
このような問題は、地域社会の繋がりが昔よりも薄れて、互いにどのような家庭教育をしているのか、お互いに見えない環境になってから、より先鋭になってきているのではないかとも思われます。 
 
 

前田誓也法律事務所
〒980-0812
宮城県仙台市青葉区片平一丁目5番20号 ハルシュタットビル6階
(旧:イマス仙台片平丁ビル)

TEL.022-395-9925
FAX.022-395-9926


・弁護士
・法律相談
・民事事件
・不動産訴訟
・刑事事件


TOPへ戻る