学校問題と電話相談について
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週によっては当職も担当いたしますのでよろしくお願いします。
なお、いじめ等の深刻な問題がある場合は、当職の事務所に直接御連絡いただいてもけっこうです。
秘密は厳守しますので、特に(このページを見る子どもさんはそう多くないかとは思いますが)何か悩みがある子どもさん本人から御連絡いただいても対応可能です。
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いじめ問題
1.「いじめられる側にも原因がある」は筋違い
おそらく、従前は学校内で内々に処理されてきた、あるいは見過ごされてきた問題が、学校を中心とした地域的な結びつきの弱まりと、また権利意識の高まりにより、徐々に司法のフィールドにシフトしてきたものと思われます。
まず、「いじめられる側にも原因がある」という論理は、いじめの原因を考える上で絶対的に否定できる話ではないにしても、それはいじめ行為自体を正当化できる要素にはなり得ません。
宿題をよく忘れる、運動神経が良くない、雰囲気が浮いている、それは何らいじめを正当化する理由にはなりません。
いじめは放置すればするほどエスカレートします。
初期段階で対応すればそこまで深刻化しないであろう問題でも、放っておくとどんどん悪化していきます。
例えば、最初は立場の弱い子に宿題を「手伝わせる」であったものが、そのうちエスカレートして宿題を「全部やらせる」に悪化していったという話を聞いたことがあります。そのことは子ども達の間でだけ知られており大人は知らない。立場の弱い子は搾取され続けるばかりです。
立場の弱い子にも全く原因がないのかと言われればそうではないかもしれません。
ただ、だからといってそれぞれが自分でやるべき宿題を二人分も(もっと悪化すれば三人分以上も)させられることを正当化する理由には何らなり得ません。
いじめはとにかく何としてでも大人が介入して早く止めるべきだと考えています。
いじめられている側にも原因があるというのであれば、とりあえずいじめを止めさせてから後でいじめられていた側にも自分の行動を振り返らせることができれば十分でしょう。いじめという暴風に晒し続けることを正当化する理屈は存在しません。
2.「いじめに立ち向かう強さ」という論理に対する疑問
今の時代になっても「いじめに対しては勇気を出して自分の力で対抗できるようにならなければ駄目だ」という意見を聞くことがあります。
特に男子児童・男子生徒に対してよく言われるように思います。
昔ながらのマッチョイズムで、男は強くあれという大前提、それに基づいた意見であり、一見すると良いようにも聞こえます。
しかし、このようなスローガン的な見解をいくら押し進めてもいじめの問題が解決することはないと思います。
要するに「立ち向かえ」「やり返せ」というのは、いじめている側の人間が殴ってきたら殴り返せ、ということでしょう。
しかし、暴力は良くないなどという以前に、殴り返すくらいの「力」(腕力というだけではなくてクラスルーム内での「権力」という趣旨を含みます)のある者であれば、そもそもいじめのターゲットにならないでしょう。
大体は、教室における暗黙のヒエラルキー(現在はスクールカーストとも言われます)の最下層か、とりあえずクラスのボス格の仲間ではあるもののその中では最も力が弱い者が狙われることが多いと思います。
勇気を出したくても出せない、体を鍛えて殴り返したくてもそれができない。
そういう者を狙っていじめは行われます。
こういうターゲット選定に関する子ども達のセンスは、大人では計り知れない、恐ろしいものがあります。
むしろ大人になると自分の仕事や家庭のことで頭が一杯になって、誰がどういった性質の人間かということにはそこまで深い関心を払わなくなりますし、肩書き同士の付き合いがほとんどですので、むき出しの、素の人間性同士で接することというのはほぼ無くなります。
ただ子ども達はクラスルームにおいて、性格・容姿・能力全ての部面において全人格的に相互に観察しつつ日々をおくります。それだけに、そういった感覚というのは子どものほうがよくはたらいてしまうのかもしれません。
ともあれ、いじめというのは基本的には「抵抗する可能性がない・低い者を狙った継続的かつ物理的・精神的な暴力」です。
抵抗できないものを狙っていじめが発生するのに、「抵抗しろ」というのは無理な話です。
むしろ大人に助けを求めることを「虎の威をかる狐」のような行為であるとして卑怯な行為であるかのように言う向きもあります。
しかし、大人であっても、例えば暴力団に脅迫されたら警察に言うでしょう。また職場でパワーハラスメントに遭えば弁護士に相談するでしょう。
大人ですら国家権力や専門職に助けを求めるのに、子どもが助けを求めてはいけない理由は全くないはずです。
大事なことは、上手に、的確に助けを求めることは恥ずかしいことではないという意識を浸透させることだと思います。
3.いじめの加害者を特定することは難しい
誰が加害者というのが特定できません。
主導的な立場に立つ者がいるにはいますが、実際にはいじめに加わる者と、それを見てみぬ振りしつつ主となるグループにおもねっていじめに時々参加する者、そしていじめを傍観する者がいます。
いじめの被害者から見れば、それら全員が「加害者」に見えるものです。
特に、いじめの加害者であっても、その中で立場の弱い者は、現在のいじめの被害者をいじめることが何らかの理由(学校に来なくなったなど)で、できなくなれば今度は自分がターゲットになる可能性があることが本能的に察知できてしまうがゆえに、かえって殊更にいじめに参加しようとすることもあります。
このため、実はクラスのボス格から始まったいじめなのに、被害者生徒の恨みはその、本来二番目に立場の弱い生徒に向かうこともあります。当然、その弱い加害者を叩くだけでは問題は解決しません。
そして、いじめの態様も巧妙化しています。
例えば教室に帰ると机の引き出しが開けられており中が荒らされている。物が盗まれる。黒板に「○○死ね」と書いてある。
このようないじめについては、そもそも(加害者が自己申告しない限り)加害者を特定できません。
また、最近ではインターネットの学校裏サイトや掲示板に個人が特定できるような形で誹謗中傷を書き込むというのもいじめの一態様でしょう。
漫画「ドラえもん」のジャイアンのような、根は人の良いガキ大将的な乱暴者が、正面からボコボコと殴りつけてくるような馬鹿正直ないじめは、現在においてはほぼ存在しないと見ていいでしょう。
そんな巧妙ないじめに、被害者一人の力で「立ち向かえ」というのはどだい無理な話です。
やはり大人の介入は絶対的に必要なのです。
4.偽りの正当化
要するにいじめをするにあたって正面から「俺はアイツをいじめてるんだ」「おい、○○をいじめようぜ」と言う子どもはほとんどいません。むしろ、自分自身でも「いじめ」をしていると思っていない場合がほとんどでしょう。
彼らは自分の中で理屈をつけて、「いじめ」という行為を自分に対しても他人に対しても正当化するのです。
以下、過去に見た中で特に典型的な理屈を列記します。
「あいつ(被害者)がだらしないから鍛えてやっているんだ」
特に運動能力の弱い、体格の弱い者に対していじめがされる時によく聞かれる理屈です。
これを言われると、気の弱い被害者は「俺が弱いからいけないんだ」となってしまい、周囲にも「いじめを受けている」とは言えなくなります。
ただ、自己鍛錬というのはあくまで自分の意思でやるものであって、誰かに強制されるものではありません。
「一緒に遊んでるだけですから」
雰囲気的に浮いてしまう、友達の少ないことで悩んでいる者に対していじめがされるときによく聞かれます。
これも、被害者としては本気で加害者のことを「一緒に遊んでくれる」ありがたい相手としてとらえざるを得なくなるので、抵抗は出来ません。
ただ、遊びというのは対等だからこそ楽しいわけで、そこに恐怖心が入ってくるのであればそれは明確にいじめです。
「罰ゲームです」
これも上記に近いですが、偽りの公平性を演出している点でより巧妙です。
要するに敢えて腕力の弱い者と腕相撲勝負、走力の弱い者と鬼ごっこして、負けたら何か人格の尊厳を害するようなことをさせるというものです。
遊びや勝負自体はたしかに対等な条件なので、基本的に立場の弱い被害者は断る理由が思いつきません。さらに罰ゲームを甘受しない(「不公平だ!」と主張する)方策がありません。「自分のせい」にされるのです。
こういったいじめは、テレビ文化を否定するわけではありませんが、バラエティ番組で芸能人が過激な罰ゲーム等の企画をやり始めてから、子どもが特に真似するようになったと思われます。
しかし、芸能人はプロとして、当然事前打ち合せでは視聴者に面白く見せるために納得いくまで綿密な打合せをした上で企画に臨んでいます。そんな芸能人と子どもを一緒にする時点でおかしい理屈ですし、無理矢理芸能人のようなことをさせられる理由もありません。
「他の奴は何も言わなかった」
例えば、いじめの加害者グループの一人が皆の前で裸踊りをしたとして、いじめの被害者にもそれを強要するというようなものです。
要するに「他の奴は文句を言わなかった」「それで皆も何も言わなかった、むしろウケた」「だからお前もやってみろよ」といって強制するものです。
しかし、裸になったり露出することを何とも思わない(むしろ笑いが取れるのでオイシイと考える)子どもと、人前で上半身裸になるだけでも絶対に嫌だという子どもと、いろいろな性格があります。人間である以上性格の違いがあるのが当たり前で、無理に他人に合わせる必要は無いというのが大前提です。ですので、こういう間接的な強制の仕方もれっきとした「いじめ」行為です。正当化される理由はありません。